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神楽坂駅周辺は歴史ある寺院や商店街があることで知られます。ケヤキ並木の商店街は老舗や名店が並び、その周囲には風情ある路地が入り組んでいて、他の街にはない独自の特徴で人々を惹きつけています。そんな神楽坂を愛する外国人も少なくありません。 中心から外れると落ち着いた住宅街となっていて、都心近くでありながらも落ち着いた環境で、暮らすうえでも人気があります。 そんな神楽坂駅の事情を、さまざまな角度でくわしく調べてみました。 飯田橋駅西口から外濠を越えて、西側に位置する神楽坂。神楽坂駅は、神楽坂下から始まる神楽坂通りの商店街の中ほどに位置しています。 神楽坂は、歴史ある商店や寺院、ところどころに趣きある路地が残るエリアです。 一方、お洒落なカフェや粋な居酒屋、エスプリを感じさせるレストランなど多彩な飲食店も集まっていて、食通や観光客にも愛されるスポットでもあります。 メインストリートはもちろん、路地裏にも店舗が点在しているので街歩きの楽しみにあふれています。 歴史をたどってみると、神楽坂は現在の新宿区袋町にある光照寺の場所に、天文年間に牛込城が築かれたことから街が形成されたと伝わります。江戸城の外濠が築かれた江戸時代には、神楽坂下に牛込門が設けられ、交通の要衝に。また、神社や寺も多い神楽坂は縁日などで賑わい、明治から昭和の初めには、茶屋や料亭などが集まる花街として隆盛を誇りました。そんな賑わいが現在の神楽坂の礎となったことでしょう。 神楽坂駅周辺は都心へのアクセスもよく、現在、多くのマンションが建つ人気の住宅街ともなっています。

新宿区矢来町にある東京メトロ東西線の駅・神楽坂。神楽坂のメインストリートに位置する駅です。東西線は中野駅から千葉県の西船橋駅を結ぶ路線で、JR中央総武線で三鷹駅までの直通運転もしています。 神楽坂駅の南東には都営大江戸線の牛込神楽坂駅もあり、両駅は徒歩6分ほどの距離。また、乗り入れの多い飯田橋駅も坂を降りたところにあります。 周辺を通る路線バスは都営バスが運行していますが、停留所は神楽坂駅付近にはありません。坂を上がった環状3号線沿いか、牛込神楽坂駅近くの大久保通り沿いなどに停留所があります。環状3号線の牛込保健センター停留所を経由しているのは練馬駅前から新宿西口まで至る路線。大久保通りの牛込神楽坂駅停留所を経由しているのは、小滝橋車庫前から都営飯田橋駅前に至る路線です。 神楽坂駅は、高田馬場方面行きのホームと大手町方面行きのホームの両端に、それぞれ出口があります。 坂の下側の神楽坂方面出口は、1a、1bの2か所、坂の上側の矢来町方面の出口は1か所です。 神楽坂駅は、地上出口を含む駅の改良工事に加えて、エレベータやエスカレーター設置工事も行われ、平成31年にバリアフリー化が完了しました。 多くの小売店や飲食店が集中する神楽坂駅周辺。ところが住民が日常的に利用するスーパーマーケットは、よしやSainE神楽坂店と神楽坂KIMURAYAをのぞくと駅周辺からやや離れた場所に位置しています。 早稲田通りを早稲田方向に歩いていって地蔵坂を越えたところに業務スーパー新宿榎店があり、北側の江戸川橋駅近くには、マルエツ江戸川橋店とまいばすけっと江戸川橋地蔵通りがあります。 また、飯田橋駅の首都高5号池袋線沿いには、店舗面積が比較的広い、いなげや飯田橋店があります。 コンビニも駅周辺には乏しく、牛込神楽坂駅近く、外濠近く飯田橋駅方面、環状3号線沿い、首都高速5号池袋線沿いなどに点在しています。 神楽坂通りに面していて、駅から徒歩3分くらいに位置するスーパーです。 生鮮食品は品ぞろえ豊富で、時に魚介類は高く評価されています。お惣菜の評判もよく、ひと通りの食材はこの店の1階で揃うでしょう。 2階は、お酒や調味料、日用品のコーナー。日本酒の品ぞろえが充実しているのも特徴です。 神楽坂駅矢来町出口から坂を上がり、牛込天神町の交差点を過ぎたところに位置しています。 リーズナブルなオリジナル商品を揃えているので、食品のまとめ買いにはもってこいのスーパー。ただし、新宿榎店には駐車場がないので、その点は要注意です。 ムスリム向けのハラールフードも取り扱っています。 前オーナーの自分でも毎日通いたくなるようなレストランをとの思いで始まったビストロ。オーソドックスなメニューが本場の味わいで食べられる王道フレンチです。 店内は、くつろげる雰囲気ながらパリの小粋なレストランと言った趣き。ランチなら前菜とメインディッシュのセットなら1410円から。ディナーはアミューズ、前菜、メインディッシュ、デザート、ソフトドリンクのセットなら3760円です。本格的な味わいながら良心的な設定。ワインも豊富なラインナップです。 神楽坂通りから1本裏に入った場所にあります。 神楽坂通りと軽子坂の間、かくれんぼ横丁にある四川料理の人気店です。 本場・四川に足しげく赴いたシェフらによる四川料理は、麻、辣、香が混然一体となった複雑な味わい。一度口にすると病みつきになるような料理ばかりです。メニューは、蒸し鶏胡麻辛子ソースや四川ダック、火鍋などさまざま。 ディナーは6000円からになりますが、ランチのお弁当なら770円からとリーズナブル。紹興酒や中国茶なども豊富です。 発汗を促し、健康にも良いと言われる四川料理をモダンな店内で食べる至福を、どうぞ体験してください。 善國寺の裏手、路地裏に位置するこの店は、都内屈指のソバ店の一つと言ってもよいでしょう。 福島県会津柳津町産の玄ソバをはじめ、素材の一つひとつを厳選したうえで、丁寧な仕事ぶりに魅了されます。 石臼挽き手打ちのソバは黒い粒が残りながらも、のど越しは抜群。ソバの風味もしっかり。つけ汁はキリリとした辛口で、ソバを引き立てているのも特徴です。 また、天ぷらのおいしいことでも知られていて、夜なら多彩な一品料理にも舌鼓を打ちたいところ。 実は手打ちのうどん、ひやむぎも絶品で、一度は試してほしい逸品です。 神楽坂駅周辺は、保育施設が少なく、その点では子育てに不向きなエリアと評価されます。それでも、曙橋駅周辺や戸山周辺、首都高速5号池袋線の文京区側などには保育施設が点在していますので、エリアを上手に選ぶことで保育施設の利用がしやすくなりそうです。 また、神楽坂駅周辺は交通のアクセス環境がよく、特に飯田橋駅に出れば5路線の利用ができるので、移動にとられる時間も短め。その分、子どもと過ごす時間が確保できるという利点もあります。 神楽坂駅のある新宿区は、令和3年、待機児童ゼロを達成していて、認可保育園なら3~5歳児の保育料は無料など、子育て支援に積極的に取り組んでいます。 新宿区の子育て・教育関係の行政サービスについては、こちら。新宿区の情報 表通りはもちろん、場所によっては裏通りを歩く人も多い神楽坂駅周辺。観光客で賑わいますが、ほかの繁華街と比較してみると喧騒を感じることは少なく、夜間も飲んで騒ぐ姿はさほど多くは見られません。 中心部でも落ち着いた雰囲気が感じられるのが神楽坂の特徴ですし、神楽坂通りから距離を置けば静かな住宅街が広がっています。 犯罪件数や犯罪発生率も低いのでその点は安心材料ですが、夜間に入り組んだ路地裏を一人で歩く時は、少し緊張するかもしれません。 また、神楽坂周辺は23区内では墓地が比較的多いエリアでもあるので、お部屋探しはその点も考慮するとよいでしょう。 神楽坂通りは、神楽坂下交差点から西に向かって伸びた通りで、神楽坂上交差点まで続いています。 ケヤキ並木のメインストリートはもちろんのこと、裏通りまで小粋なショップや飲食店が隠れています。店舗のスタイルは多彩で、神楽坂でしか売っていない雑貨店や老舗の菓子店をのぞいたり、カフェやレストラン探訪など、街歩きの魅力にあふれています。 また、近くに日仏学院があるせいかフランス人も多く、フレンチレストランの充実度はほかのエリアの群を抜きます。もちろん和食の店も数多く、グルメの要求に応えるオトナの街です。 創建から700年以上もたつ古い神社ですが、現在、日本一おしゃれな神社と注目されています。 この神社は平成に行った再生プロジェクトで生まれ変わったからです。著名な建築家・隈研吾が監修したプロジェクトは、ガラス張りの本殿など斬新なものでした。菅原道真を祀った本殿横の蛍雪神社や狛犬なども、日本古来のデザインを踏襲しながらもモダンな趣き。 また、境内にあるあかぎカフェも独特で、オリジナルの和スイーツが洒落ています。おみくじやお守りなどのグッズもユニークで、手に入れたいと思う人が多いのではないでしょうか。 神楽坂下交差点から外濠通りを市谷方面に歩いていき、右側の坂を上がったところにある東京日仏学院。 フランス語の語学学校ですが、映画や講演会、展覧会などの催しを行い、文学、美術、映像、音楽など、フランス語圏の多様な文化を紹介しています。館内には、映画館や図書館などもあり、誰でも入場可能です。 時にはガーデンパーティーや野外コンサートなども開催され、学院中が陽気な雰囲気に包まれます。 国籍や年齢を問わず、フランス文化に関心をもつ多様な人々が訪れるので、多文化共生を実感できる場所でもあるでしょう。 一杯の炊きたてのごはんから、つながり広がる幸せをテーマに、食品や生活雑貨などを集めたセレクトショップです。 全国から厳選したお米の量り売りやパック入りのコーナーでは、特徴がくわしく説明されています。ご飯に合う瓶詰、缶詰などの食品や調味料も豊富。鍋や食器などの雑貨コーナーも人気です。 一画には、話題のAKOMEYA食堂もあります。羽釜で炊いたご飯が特徴で、季節の小鉢膳や三陸産カキフライ御膳などの和定食が人気です。 一方、期間限定のショップスペースやワークショップ開催もあり、何度訪れても楽しめます。 東京23区の南西に位置する目黒区は、落ち着いた雰囲気を持つ大人の街というイメージがあります。 繁華街やオフィスは都心に比べるとやや少なめですが、上質なショップや飲食店でも新旧ともに名店が多いエリアです。 そんな目黒区は、実際に暮らしてみるとどのような街なのでしょう。さまざまな角度から検証してみました。 目黒区は23区内の南西部に位置していて、渋谷区、品川区、世田谷区、大田区に囲まれています。東西より南北が長い形をしていて、世田谷区と品川区に押しつぶされたような形です。区の面積は14.67㎢で、23区内では16番目と、やや小さめの区域になります。 武蔵野台地の東南の端に近いためか、台地と谷の境目となるような場所に位置していて、坂が多いのが地勢の特徴でもあります。 区内には大規模な繁華街はなく、駅から離れると閑静な住宅街が広がっているのが目黒区らしさを物語る光景。そうした少し静かなエリアにも、こだわりをもった飲食店や雑貨店などが点在しています。 区内は、北から駒場周辺の北部地区、中目黒や不動などを含む東部地区、上目黒、鷹番などの中央地区、向原、大岡山東などの南部地区、大岡山西、自由が丘などを含む西部地区の5つに区分けできます。また、東急東横線沿線、東急目黒線沿線、東急田園都市線沿線、東急大井町線沿線、京王井の頭線沿線など、沿線ごとに街の雰囲気が変わります。 区域が小さく、三日月のような縦に長い形をした目黒区は、区内を通る鉄道も限られていて東急電鉄の東横線が、区域の北東から南西に斜めに走っているほかは、区境を縫うように東急電鉄大井町線や目黒線、京王電鉄井の頭線が通っています。都心部から放射線状に路線が通っている状態です。 また、目黒区と聞いてすぐに思い浮かぶ目黒駅は、実は品川区に位置しています。そのため目黒区の交通環境案内としては外されてしまうことも多いのですが、都内の主要路線であるJR山手線が通っていることや、地下鉄や私鉄の起点駅であることから、ここでは取り上げています。 一方、バスは東急バスと都営バスが区内の主要地を結ぶように運行しています。 コミュニティバスは、目黒区でも検討されていたことがありましたが、事業の採算性が見込めずに計画が見送られたという経緯があります。 目黒駅は品川区に位置していますが、目黒区民には欠かせない駅。地上にJRのホームがあり、地下に東急電鉄、東京メトロ、都営地下鉄の共同駅があります。 各路線の一日あたりの乗車人数は、JRが7.4万人、東急電鉄が18.5万人、東京メトロが8.1万人、都営地下鉄が6.8万人で、この周辺ではもっとも利用客が多い駅です。 東急電鉄東横線と東京メトロ日比谷線が乗り入れている駅で、両社の共同使用駅になっています。 渋谷方面へ向かう東急東横線は、途中、東京メトロ副都心線を介して西武池袋線に直通運転しています。反対に横浜方面は横浜高速鉄道に乗り入れているので3県をまたぐ路線になっています。 一方、東京メトロ日比谷線は、中目黒駅を出発すると霞ヶ関駅や日比谷駅など都心部を経て、荒川区の北千住まで通っています。 サクラの名所の目黒川に近く、周辺には高感度な飲食店や雑貨店なども多く、休日も賑わうエリアです。 目黒区は数年前まで待機児童数が全国で3番目に多く、子育てには向かないと評価されていました。そのために区は待機児童数の削減を最重要課題としてとらえ、認可園を続々と設けました。その結果、令和2(2020)年4月には見事に待機児童数ゼロを達成し、汚名返上をかなえました。 こうした例にもれず、現在、目黒区は子育て支援に積極的に取り組んでいます。 例えば、妊娠から出産、子育て中まで、トータルな支援がスムーズにアクセスできるように設けられているのがゆりかご・めぐろという相談事業。助産婦や保健師などの専門家がパパやママの悩みに向き合ってくれます。ここで面接を受けると育児用品のギフトカタログを受け取れるという特典もあります。また、出産後に一時的に子どもを預かってくれるファミリー・サポート・センターも共働きが多い昨今、うれしいサービスです。 助成金に関しては、出産費用の一部負担を区が行う入院助産費用のほか、目黒区を離れて親元などで出産する場合にも助成金を出してくれる里帰り等妊婦健康診査費助成などがあります。出産後も義務教育修了までの子どもの医療費を区が助成する子ども医療費助成制度など、目黒区では多彩な助成制度を整えています。 また、こうした多様な行政サービスにアクセスしやすくなるよう、区では子どもの年齢やケース別に検索できるめぐろ子育てホッ!とナビを開設。ここには区民発のおすすめ情報の紹介ページもあって、双方向発信の充実した内容になっています。 犯罪の発生が少ないのは、高収入で落ち着いた暮らしを送っている区民が多い傾向があり、さらにファミリー層が多いため、防犯意識が高いことが関係していると考えられます。 また、目黒区は女性に人気のエリアなので、セキュリティーに配慮したマンションが多いのも、犯罪発生を未然に防ぐ要因になっているのかもしれません。 もちろん犯罪がまったく起きないわけではなく、自転車盗や万引き、粗暴犯などの犯罪は起きています。それでも発生件数を23区内のほかの区と比較すると、概ね低い数字です。 目黒区内で比較的犯罪が多いエリアは、中目黒や学芸大学、年によっては自由が丘でも犯罪が発生しています。いずれも東急沿線の人が多い駅周辺ですが、ほかの区と比べれば低い数字なので、特別に心配する必要はなさそうです。 目黒区は、概ね治安のよい暮らしやすい街であると言えるでしょう。自転車を止めておく時は、しっかりと鍵をかける、夜道は街灯の多い通りを歩くなど、ちょっとした心遣いで身を守ることが可能です。 目黒川は、北沢川と烏山川が合流した世田谷区を起点として目黒区を通り、品川区から東京湾に注いでいます。 目黒川が目黒区内の名所として有名なのは、川に降り注ぐように枝を伸ばしたサクラ並木の美しさからで、都内屈指のお花見スポットとなっています。 サクラがもっともきれいなのは、目黒区大橋から下目黒の間。歩き疲れたら、目黒川沿いのカフェで休憩したり、個性派ショップを覗いてみるのも、このエリアのもう一つの楽しみです。 JR目黒駅の西側、人通りの多い山手通りと目黒通りの交わる交差点の角に位置しているのが目黒区最古の目黒大鳥神社です。 日本武尊が東夷平定の際に、ここで戦勝と部下の眼病の治癒を祈願し、それが成就したときに剣を奉納したことから後に神社が創建されたと伝わります。 江戸時代には庶民の目黒詣が流行り、江戸後期の天保年間には江戸名所図会にも掲載されました。 商売繁盛や火難除け、縁結びなどのご利益で知られ、初詣や9月の例大祭、11月の酉の市は、とりわけ多くの参拝客が詰めかけます。 下目黒にある関東最古の天台宗の寺院で、創建は平安時代にも遡れると言われます。目黒不動と親しまれてて、江戸三大不動の一つとして数えられます。 大同3年、最澄のもとへ赴く途上、この地に滞在した慈覚大師の夢に威容ある神人が現れました。慈覚大師は自らその姿を彫刻で再現し、それが本尊の目黒不動明王になりました。 江戸時代には徳川家光が多くの伽藍を建立し、境内で富くじの販売が行われたり、境内の独鈷の滝の霊験が有名になったりして、多くの庶民が訪れる行楽地となりました。 現在も縁日や仏教行事などで賑わいます。 現在、写真や映像はアートの一翼を担う存在として、注目されていますが、ここでは日本内外の優れた作家の企画展が催されています。多様な写真表現や映像表現の幅の広さに驚かされることでしょう。 ホールでは一般の映画館などで上映することが少ない映像作品を厳選して上映。また、写真や映像に関する図書を閲覧できる図書館も備えています。 静謐な空間で、新しい発見ができる場です。 目黒区の北の端に突き出たような駒場周辺。落ち着いた街並みの一画にあるのが日本民藝館です。かつて大正時代に暮らしの中の美を提唱した柳宗悦と賛同者が始めた民芸運動。民芸品の調査研究、蒐集、保管、普及などを行いましたが、この美術館では活動の成果を展示しています。 初代館長は柳宗悦で、現在の館長はプロダクトデザイナーの深沢直人です。古いものに新しい視点を採り入れながら日本や諸外国の優れた民芸品の企画展示を行っています。 昭和11年に柳宗悦の設計によって建てられた本館、柳宗悦の旧居である西館の建物自体も味わい深く見どころ満載です。 目黒区の南西の端に位置する自由が丘は、駅周辺にスイーツのお店が集結していることで知られています。 なかでも自由が丘スイーツフォレストは、日本初のスイーツ・テーマパークです。 たびたびリニューアルを行ってきましたが、2022年のリニューアルによって「韓国スイーツと韓国カルチャーのコラボレーション」をコンセプトにして、また新たな魅力を振りまいています。 韓国で人気のマカロンのお店やフワフワの雪のようなかき氷など、国内では珍しい韓国スイーツに出合えます。 江戸時代からの下町として発展してきた墨田区には、数多くの文化や産業が集積しました。大相撲が行われる国技館に近いことから、昔から多くの相撲部屋があります。 また東京の夏の風物詩隅田川花火大会は、この墨田区エリアで江戸中期に始まった両国川開き花火大会が継承されたものです。 そして2012年5月に東京スカイツリーが開業し、東京の一大観光拠点の役割も果たすようになりました。 墨田区では長年続く文化や産業に加えて、このスカイツリー開業がもたらす区内商業の活性化が期待されています。 墨田区には伝統文化の街以外に、ものづくりの街の一面もあります。製造品出荷額が23区中3位という数字からもわかるように、製造業が活発に行われてきました。 明治時代の主な工業製品は瓦や髪結具、ろうそくでしたが、やがて河川に囲まれた立地を活かし工業化が進み、 紡績、精密工業、石鹸 製靴の生産が行われるようになりました。現在は、金属製品、印刷及び関連業、繊維工業、皮革とその製品の製造が主流となっています。 長い歴史の中で主力商品が移り変わってきた製造業は小規模な零細事業者が多く、家族全員で事業を支えてきました。 この経営形態は今も続いています。主婦の就業率が3位という数字がそれを表していると言えます。 少子高齢化時代に突入した日本社会において、墨田区の家族経営主体の製造業も衰退期に入っています。 既存の製品から新しく付加価値の高い製品の開発、製造を行うのと同時にすみだの知名度を高めるブランド戦略の成功が今後の墨田区の課題です。 あたらしくある。なつかしくあるをキャッチフレーズに掲げ、江戸時代から継承された地域の文化を次世代へ届けながら、 優れた技術力をベースに墨田区ならではの独自性を打ち出した暮らしを豊かにする製品を生み出していきます。 新しく開発された商品は、商品部門と飲食店部門の2つの部門に分かれてそれぞれ審査を受けて、基準を満たせばすみだモダンの認証を受けることができます。 このようにしてすみだモダンの認証を受けたさまざまな商品が全国に広がることで、 墨田区の商品開発力や技術力の高さをアピールし、墨田区のイメージアップ効果を高めることを目的としています。 墨田区では、東京スカイツリー開業と同時期にこのブランド戦略を開始しました。 そしてこのブランド戦略を中心に街づくりや情報発信も行っています。 これらのブランド戦略に参加する地域の労働力は、15歳以上人口に占める就業者数の割合が23区内で1位となっており、その潜在力の高さには目を見張るものがあります。 区内の製造業の従業者数は4位で、これも23区内では上位にランクインしています。 そして製造業における家族従業者の割合が3位、工場の密度が2位、主婦の就業率が3位ということからもわかるように、 1事業所あたりの規模は小さくても、家族全員で一致団結して仕事に携わってきたことがわかります。このような職場環境は、東京の下町エリアによく見られる特徴です。 また墨田区では保育サービス充足率も2位となっており、待機児童が比較的少ない区で、 子育て世代の母親も働きやすい環境が整っています。墨田区は江戸時代以来の下町、庶民のまちとして、 地域や人とのつながりが深い環境の中で数多くの伝統文化や地場産業が育ってきました。家賃相場が手ごろなことや、 下町情緒あふれる環境や交通アクセスの良さで単身世帯、ファミリー世帯を問わず賃貸住宅の人気も安定しています。 今後は、これらの特性をより活かしながら、官民がそれぞれの役割分担のもとに一致団結して魅力あふれる街づくりに取り組まなければなりません。 自然の恵みを活かした産業振興と先を見据えた区政が、現在衰退しつつある商工業の活性化や加速する 少子高齢化に伴う人口減に歯止めをかけられるかが、板橋区の今後の課題となっています。 東京都の工業地域といえば、真っ先に思い浮かぶのが京浜工業地帯ですが、内陸部の板橋区でも、 その豊富な水源を利用し明治時代から工業が地場産業として発展してきました。 また関東大震災後に板橋の北部が工業甲種特別地域に指定されたことも追い風となり、 広い用地を求めて都心から次々と工場が移転してきたこともあって、板橋区の工業化が加速しました。 戦後までは軍部管轄の兵器工場、火薬倉庫があり、軍部が発注元となり多くの製品が作られました。 東京23区は、区によって住む人の年齢や1世帯あたりの人数、物価などに差があります。板橋区はどのような特徴を持っているのでしょうか。 板橋区に住む人を見ると、15~24歳の若者の割合が23区中2位となっています。 これは、区内にある大学の数が7位であることが影響していると考えられます。 板橋区内で働く人は、その区に住んでいる人の割合も23区中で5位と高いのですが、 夜間人口に占める企業・団体の役員の比率および管理的職業に従事する人の比率は20位と少なくなっています。 住民の多くは高待遇の役員よりも中間管理職以下の従業員レベルが多いことがわかります。 2012年度の1世帯あたりの所得水準が23区中17位352万円であることをみればそれがよくわかります。また生活保護受給者の数が2番目に多いことも特徴の1つです。 板橋区での商業を支える商店街は、かつて日本一と称された規模を持つ大山商店街や板橋緑宿9商店街が有名です。 この2つの商店街は1kmを超える規模で、このほかにも500mクラスの商店街が5カ所ほどあります。 自治体は区民が選んだ板橋のいっぴんを公募し、区内商業の活性化のサポートを行っています。 水源に恵まれて工業を中心に発展した板橋区は、近年全国的な人口の減少や高齢化の影響を受け、産業の衰退が懸念されています。 自治体は企業立地支援政策などを打ち出し、産業発展のサポートを行っています。 また区を5地域に分け、各地域の特性を活かした街づくりをすすめています。街づくりにおいて、自治体は区民との相互協力を重視しながら政策を進めています。 例えばパブリックコメントやモニター制度を導入し、区民の意見を取り入れながら区政に反映させる努力をしています。 そして災害発生時、板橋区は内陸部にあることから、首都直下地震の被害想定ではその被害が比較的少なく23区で最も安全率が高い区と評価されました。 これを受けて、板橋区ではさらに安全性を高めるべく、緊急時には私有地を開放して避難路の確保を行うといった住民を巻き込んだ災害対策を進めています。 大田区は環境の良い山の手の住宅地と商工業が盛んな海側エリア、そしてその2つの地域に挟まれた繁華街の3つに分けられます。 元々東京が35区制だった時代の大森区と蒲田区が合併して誕生した区で、当時のエリアの特徴が現在まで受け継がれています。 合併して新しくできた区は、その面積が23区中最大の区となりました。人口も3位で、数字上の規模の大きさだけでなく、その潜在性も未知数です。 山の手の大森エリアは、大正初期から高度経済成長時代に多くの人が都心から移り住んだことで高級住宅エリアのステイタスを勝ち取り、 現在も住みたいエリアの上位にランクインするブランドエリアとなりました。特に田園調布は、有名な財界人が作り上げたイギリス式の田園都市として有名です。 そして湾岸沿いの埋め立ては引き続き行われており、区内にある空港のおかげで、今後も工業をメインとして産業の発展が期待されています。 湾岸エリアに集まる工場は、住工一体型、家族経営というように小規模なものが多く、将来はこれらの中小規模工場の操業環境の維持が課題となっています。 大田区は、海側のエリアでは商工業が今後も発展することが見込まれていますが、 少子高齢化に伴う世帯人員の減少や世帯の小規模化への対策をたて、 住宅エリアに子育て世帯を呼び込むことが区の発展を左右するカギとなっています。 大田区の東側、東京湾沿いのエリアは、東京都心から川崎、横浜に至るまでの間にあります。 交通アクセスが良い利点を活かして、関東エリアの都市化を進める原動力となってきました。 大正時代初期頃から、この湾岸エリアが京浜工業地帯の一角として工場が増え始めました。旧蒲田地域では、高い加工技術を持った機械部品工業が発達しています。 そして昭和の始めに空港が開設され、数々の物流拠点が作られたことで流通が活発化しました。 戦後になり湾岸エリアの埋立事業が進んで平和島、昭和島、京浜島、城南島、東海島が大田区内に編入されました。 そしてこれらの島々に多くの工場や流通施設が移転していきます。空港は、拡張工事が進み24時間利用ができるようになり、2010年以降再び国際定期便が就航しています。 これまで工業を中心に発展してきた湾岸エリアは、今後、製造や流通の場だけでなく他業種への土地利用のニーズの高まりに応えていく転換期を迎えています。 大田区は、大正から昭和初期にかけて耕地整理が行われました。そして戦後復興期の大森駅や蒲田駅周辺での土地区画整理を経て、 現在の大田区の都市基盤が作られています。道路整備もこれらの都市開発と並行して行われてきました。 特に関東大震災後、工場進出が活発化し中小規模の工場が内陸部に拡大して、住工が混在する現在の大田区の原型が作られました。 そして、大正期から区の北東部でも住宅開発が進み、現在の住宅エリアが形成されていきました。 戦後間もない1950年頃からは、大田区の人口が増加し木造賃貸住宅が蒲田周辺に多数建設されています。 大田区の住宅エリアは、大きく分けると北東部の調布地区とそれより南側にある蒲田地区の2つになります。 学歴・年収・職業は、調布地区の方が高いのですが、事業所や工場の数、商業などの産業の集中は蒲田エリアの方が高くなっています。 小売業販売額も蒲田エリアの方が高くなっており、国際線が発着するようになった羽田空港へのアクセスの良さを活かして、この地域の拡大、発展が見込まれています。 蒲田地区とは対照的に山手の大森地区では、住宅地そのものの知名度は高いのにも関わらず、有名な商店街もなく独身女性が好んで住むようなブランド力もありません。 大田区全体では、人口が増えてはいるものの、高級住宅が建ち並ぶ地域では高齢化が進んでいます。 現在の大田区は、エリアによって人口が増加しているところもあれば減少したところもあります。 工場が移転した跡地に大規模マンションが建設されたエリアでは人口増加が見られましたが、JR西側、京浜急行線東側の地域などでは人口が減少しています。 住む人が少なくなった地域は、敷地面積が狭い住宅が密集しており居住環境改善が今後の人口増への課題となっています。 また人口は増えたのにも関わらず、その大半が単身世帯で子どもの数が増えない地域もあります。 豊島区は23区の西北部にあり千代田区、中央区、港区、新宿区と並んで副都心的な役割を果たしています。 現在も、東京の大都市にふさわしく埼玉方面の玄関口となる池袋には超高層ビル、また2020年には旧区役所跡地に開業予定の大規模商業施設の建設が進んでいます。 2010年度の国勢調査では人口密度が日本一となっています。特に結婚適齢期の独身男性が多く住んでおり、 池袋の街が夜遅くまで人でにぎわっている様子がテレビでよく映し出されています。 誰もがその繁栄ぶりを認める豊島区が、なぜ消滅可能性都市になってしまったのか、 そして自治体による汚名返上の対策が、今後の豊島区をどのように変えていくかが注目されています。 このデータから豊島区は2010年時点で、23区内で3番目に20歳未満の女子の割合が低かったために、 将来子どもの数が増えにくい可能性があることや、区内への人口流入が減少し転出超過となることが予測されました。 またこの時期は、一時的に人口が減少しており、外国人が増えて治安が不安視されていたことも区のマイナスイメージに拍車をかけることになりました。 そのため、2040年には消滅してしまう地域としてリストアップされてしまったのです。 もう少し詳しく見ると、豊島区は20代の割合は23区でトップですが、30代に入ると男性5位、女性11位となります。 30~44歳の結婚適齢期の性比は23区最高、つまり男性の割合が多く女性が少ない街となっています。 独身世帯が多いことを示すデータは、一世帯あたり人員は18位であること、 1住宅あたり延べ面積、1住宅あたり畳数の2つとも21位であることから予測が可能です。 そして持ち家世帯率は21位となっており、豊島区の大半の世帯が賃貸に住んでいることは明らかです。 2013年度の合計特殊出生率をみると、豊島区は23区で18位の0.99となっています。全国平均の1.43と比較すればかなり低い数字です。 豊島区が子育て世代の女性にとって住みたい産みたい場所ではないことがわかります。 これは、豊島区内が木賃ベルト地帯と称される、木造賃貸住宅が多い地域の中にあり、家賃が安い住宅が多いことも要因の1つです。 独身女性の多くが目黒区や港区といった家賃が多少高くても充実したアーバンライフが実現できるエリアへ好んで移り住み、 その結果、豊島区は住環境整備が進まないまま今日に至ってしまいました。現在は、この家賃の安さが外国人居住者の増加につながっています。 豊島区の1日の人の動きですが、区内の事業所に勤める人で他府県から通勤している人の割合は7位、 都内他地域からは8位となっています。区内で就業している割合は16位、事業所数は16位、従業者数は9位となっています。23区の中で、働きに来る場とは言えない数字です。 これに対して池袋周辺に有名大学が多いこともあり、他府県から来る通学者の割合は、 千代田区、渋谷区に次いで3位です。どちらかと言えば学びに来る場かもしれません。 豊島区が上位を獲得したものを紹介しますと、3位飲食業・宿泊業の全事業所に占める割合、5位小売業の年間販売額、3位大型店舗の年間販売額、2位売り場面積です。 5位にランクインした池袋駅の年間乗車人員でわかるように、この駅周辺に建ち並ぶ大型デパートや店舗がこの数字をたたき出しています。 自治体は消滅はないという見解を示していますが、2014年に豊島区持続発展都市推進本部を発足させて、 要因分析や今後の人口減少社会への対策を検討し始めています。 現状を調査した結果区外に引っ越す子育て世帯が多い事実が明らかになりました。 妊娠を届け出てから出産を経て、子どもが3歳になるまで区内で子育てをする世帯は全体の69.2%で、23区内で最低の割合であることがわかったのです。 自治体ではこの現実をふまえ、子育て世帯の定着度を高めるために単なる少子化対策ではなく、 女性施策に焦点をあてて、子育て世代だけでなく高齢者も住みよい街へと転換を図ろうとしています。 このような自治体の努力は、少しずつ豊島区のイメージアップにつながっています。 某住宅情報サイトの2014年版みんなが選んだ住みたい街ランキング 関東版 20代~40代編では、 池袋が中目黒や自由が丘を上回る総合3位、シングル層では2位、ファミリー層5位にランクインしました。 もともと豊島区では独身男性が多く、この層が結婚してこの地にそのまま住み続けてくれれば地域に子どもも増え、 街も子育てに適した街としてイメージチェンジが実現できるかもしれません。 今後少子高齢化がすすむ日本社会においては、人や少ない資源を集積させて効率的に経済活動を行うことが国際競争力を高める上で不可欠だと考えられています。 台東区は、23区の中でも面積が最小ながら人が多く集まり、観光地もあり、商工業を営む店や会社が多く活気にあふれています。 江戸時代より発展してきた東京の下町として、早くからヒト・モノ・カネが集まりやすかった台東区は、 明治時代以降現在に至るまでの間にその全体像をさほど変えることなく発展を続けて現在に至っています。 経済活動が日々活発に行われ、住民の生活に必要なものが徒歩で全て調達できる便利な 台東区はコンパクト・シティのモデルとして今後も発展していく可能性を秘めています。 外国からの観光客でにぎわう浅草がある台東区は、観光地以外にもさまざまな特徴を持ったエリアです。 例えば1960年の台東区の人口密度はあたり32,000人/k㎡でした。 これは、2位の荒川区の約28,000人/k㎡を大きく上回る密度の高さです。時代をさかのぼる1935年では、46,000人/k㎡でした。 近年その人口密度は下がり、2010年には23区中8位となっています。昼間の人口密度も8位ですが、 区内従業者の密度は6位、事業所密度は3位、卸売店密度2位、小売店密度1位、商店街密度1位、工場密度も1位、飲食店密度4位となっています。 1位にランクインしたものには、宿泊施設の密度、銭湯の密度、パチンコホールの密度などがあり、 これらのデータから、台東区には多種多様な建物、店が密集していること、区内に住む人が区内で働く割合が高いことがわかります。 そして貴金属、宝石製品製造業の工場数、皮革関連製品製造業工場数が1位となっています。これらの産業は台東区の地場産業として長い歴史を持つ業種です。 産業が発展した背景は、お寺が多かった台東区で仏具に使われる飾り細工や、吉原、浅草、柳橋からの装飾品の注文を受けた職人が数多くいたことが考えられます。 また江戸時代からの伝統工芸には、東京都が指定した41品目のうち27品目、はさみ、刃物、指物、桐タンス、仏壇、べっ甲、提灯、すだれなどが区内で製造されています。 これらの台東区の地場産業は、従業者9人以下の小規模事業所が区内の事業所の8割を占めています。住まいと製造が一緒になって行われる家族経営によって支えられてきました。 そのため開業50年以上の事業所の割合も高くなっています。 家族によって代々支えられてきた製造・卸・小売業は、上野のアメ横や浅草の仲見世、 谷中銀座、御徒町のジュエリータウンのような全国的にも有名な商店街を生み出しています。 これらの商店街は地元の人たちだけでなく、他府県や海外からの旅行客が集まる観光地に成長しました。 東京合羽橋商店街は、明治末期や大正初期は古道具を扱う店の集まりでしたが、戦後は飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと移り変わりました。 170店舗が集まる800mあまりの商店街は、利用客の中でも国内からの観光客が65%、外国人観光客が25%を占める専門店街へと発展しています。 その他の商店街では、老舗店舗が商売を通じて台東区の古き良き時代の生活文化のアピールも行い、独自性を打ち出して集客増への努力が続いています。 また、戦後直後に家が無かった人々のために設けられた簡易宿泊施設があったエリアは、現在も日雇い労働者が多く住んではいるものの、 その独特の雰囲気や衣食住の料金の安さが、お金をあまり持っていない海外からの若者の旅行者の増加につながり活気づいています。 このように古くからある商店街やドヤ街などが消えることなく、その姿を変えながら今もこの地に根付いているのが台東区の特徴です。 高齢化が進んでいるのに人口が増えて地域が衰退していない理由は、 台東区に生活するために必要な全てのものが密集しており高齢者から子育て世代の人に至るまで、 生活に必要な全ての用事を徒歩で足せる暮らしやすさがあるためです。 葛飾区が東京のどのあたりにあるのかわからない人でも、葛飾が下町を代表するエリアで人情あふれる町、 一世帯あたりの家族の人数が多く、昔ながらの近所づきあいの深さがある場所だと知っている人は多いのではないでしょうか。 1968年からテレビドラマとしてスタートし、後に映画のシリーズとしてギネスブックにも認定された男はつらいよは、東京都葛飾区柴又を舞台とした物語です。 この映画は1995年に公開された第49作目で幕を閉じましたが、この映画で葛飾区の地名や町のイメージが全国に広まりました。 葛飾区は江戸時代以降、幕府直轄の農村地として灌漑用水路が多く開削され整備が進んだおかげで、農耕地も増えて村が増え、大都市江戸の消費を支えました。 将軍家の鷹狩りの休息所として利用されるようにもなり、街道には人や物資が行き交うようになりました。 伝統工芸が生まれ商業が盛んに行われ、明治以降は水路を輸送手段や用水として利用し工業も発達しました。 かつて産業が発達した葛飾区は、現在その郊外において住宅地として開発が進む区として一戸建てを夢見る人たちの注目を集める区となりました。 一戸建て持ち家比率が36.2%と23区内1位である葛飾区は、今までの人情の町から家が持てる町へ変わりました。 葛飾区は江戸時代以降、幕府直轄の農村地として整備が進み村が増えました。 江戸川区、墨田区と共に東京の下町として商業の町として多くの人が集まり発展してきました。 その中から、江戸刷毛、江戸和竿、たわし、指物、漆器、羽子板、東京三味線、江戸刺繡などたくさんの伝統工芸が誕生しています。 また立地条件の良さを活かして工業地帯としても発展を遂げました。 太平洋戦争直後はおもちゃの製造が戦後の復興に大きく貢献しました。 現在、これらの商業と工業は機械化や合理化が進んだことや、大企業の区外や海外への移転などが進み、 その規模は縮小しましたが、工場の数やその希少性などにおいては、国内有数の工業集積地域であることに、変わりはありません。 葛飾区にある工場では、工場の経営者の約7割、従業員の約半数が同区内に住んでいるというデータがあります。 江戸時代から続いた長い歴史の中で出来上がった住と工が一体となった形で工業が発展してきたことがわかります。 都内の他の区では、昼間、仕事をしにやって来て、夜は郊外の別の区に帰るというライフスタイルを送る人も多いのですが、 葛飾区では自宅就業者の割合が23区でトップ、区内就業者の割合も3位で上位にランクインしています。 家族従業者の割合も5位と高くなっており、住まいの近くで家族と一緒に働くのが昔から続いた葛飾区でよく見られる光景だったということがわかります。 葛飾区には100㎡以下の家が62.5%を占めており23区内2位の比率の高さとなっています。 駅から10分も歩けば、3階建3000万円台の一戸建て物件が見つかります。 注意しなければならないのは、エリアによっては土地が住宅専用ではなく準工業地帯に指定されていることもあることです。 将来、近隣に大きな建物が建つ可能性も否定できないので物件を購入する時は、チェックは入念にしてください。 またすでに候補地周辺に工場があることも多く、音や人、車の往来などについても、曜日や時間を変えて何回も確認しておく必要があります。 現在、一戸建て購入エリアとして有望な場所の1つに、京成立石、青砥周辺があげられます。 葛飾区役所がある場所ですが、京成押上線は都営浅草線との乗り入れをしているので、日本橋、新橋といった都心へ直結できるアクセスのよさがあります。 また都営浅草線も京浜急行本選と乗り入れを行っており、羽田、神奈川、成田方面へも移動が便利です。

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